今日も締切に追われながら仕事、仕事…という愚痴をよく聞く。たしかに他人(上司!?)に言いつけられた締切に急かされ続けるのは、些かしんどい。
しかし、仕事(研究)において、
区切りや締切 というのは重要だと思う。少なくとも自分の中で締切や区切りは設けていないと、結局、漫然と過ごす時間が多くなるばかりで、効率が悪い。。。この無駄は
「本当の無駄」で、何かの足しになる無駄ではない。
仕事に限らず、日常生活においても、区切りは大切にしたい。ちょうど一年前の
“あの日” がなければ、3月11日は平凡な初春の休日だったかもしれない。しかし、あの日起こった悲劇を思い巡らすために、そして絶対へこたれずに前を向く決意を新たにするために、ボクはこの日を大事に過ごしたいと思った。
ボクの感じていることは、直接被災した人々のそれとは違うかもしれない。それでも、震災に対する
“区切り” (3月11日であるとは限らないが…)は共有するべきだと思った。
3月11日 14時46分、
黙祷。
さて、区切りや締切を作るということは、すなわち
「計画を立てる」ということだ。
中学生の時、担任の先生に期末試験に向けた計画書を提出するよう指示され、生意気アツローは放課後、先生に楯突いた。
アツロー:「先生、なんで計画書を見せないといけないんですか?期末試験の計画くらい、自分で考えて勝手にやれます。」
先生は冷静に答えてくれた。「アツローくんは自分でスケジュール管理できるかもしれないけれど、そうでない人だって居ます。アツローくんだけ計画書を提出しなくてもいいよ、ってわけにはいかないでしょう。他の人の事もよく考えなさい。それに、計画書を他人に見てもらえるのも、今のうちだけですよ。」
ボクはその先生に、計画の立て方というものを教わった。「実際は、計画からずれてもいい、それでも計画は立てなさい。」「計画は適宜、変更しなさい。」…計画を実行できたときに、終了した項目を思いっ切り
赤線で消す という自分なりの快感も覚えた。
時間は流れる。それを
“連続” ととらえるか、
“無限の不連続” ととらえるか…。前者にしては、人の一生はあまりに長く、整理整頓するのが難しい。
- 胃袋つかまれた。
(12.2.25)
うちの研究室の管理をしてくれている、Iさん。
Iさん:「ATさん、また少し痩せたんじゃない?」
AT:「はぁ。。食堂もイマイチ、他に食べるとこも少ないので…」
家にも電子レンジと山用ガスくらいしかないんです…
Iさん:「じゃあ、ウチにいらっしゃい。」
(゚o゚) !!
というわけで、図々しくもIさん宅に上がり込み、夕飯をいただく。おでん、根菜の煮物、ほうれん草の和え物、Iさんオリジナル参鶏湯風スープ…、ビールもデザートも食後のコーヒーも (^_^;)
おいしっ!
Iさんのご主人に、送り迎えまでしてもらいました。(←ノンアルコールビールで我慢させて…)至れり尽くせりのおもてなし、本当にありがとうございました。心優しいIさんに、惚れました。
- ひこうき
(12.2.23)
昼休み、研究所の食堂でごはんを食べていると、いつも
紙飛行機ひとつ 持って、中庭に現れるおじさんがいる。ひとしきり両手を広げて風を読み、肩をグルングルン回し、いざ紙飛行機を飛ばす。
毎日やっているだけあって、紙飛行機の軌跡、滞空時間はなかなかスゴい。おじさんが知ってか知らずか、食堂にいる多くの人は、おじさんが登場すると
「あ、また来た。」
とか言いながら、チラッと目を向ける。ボクは、毎回ガン見 (^_^;) しかし、今までそのおじさんに話しかける人は誰もいなかった。みんな、なぜおじさんが紙飛行機を飛ばしているのか気になっているはずなのに。。。
こうなると、黙ってはいられなくなるアツロー。今日、珍しく夕方に紙飛行機を飛ばしていたおじさんを発見し、すかさず話しかける。
「今日はいつもより遅いですね。いつも昼、見てます!」
(予想通り)おじさんは「話しかけられるの待ってました」とばかりに語り出す(笑)なぜ今日は夕方飛ばしているか、紙飛行機の構造のこと、滞空時間を長くするための秘密…。紙飛行機の設計者は、このおじさんではないそうだ。別に、流体力学の研究をしているわけでもない。じゃあ、なぜ飛ばしているか?
おじさん:「肩の運動ですよ。」
「ぇ、じゃあ右手だけじゃなくて、左手でも飛ばした方がいいんじゃないっすか?」 と言いかけて、必死にこらえた。
少し変わってるけど、
“肩の運動” のために紙飛行機を飛ばして遊ぶおじさんって、なかなか素敵だと思うな!さぁ、春も近付く冬の空に、明日も力いっぱい飛行機を飛ばしてくれ〜
- ご趣味は?
(12.2.11)
趣味が多いという人、あまり趣味がないという人、様々だと思う。でも「趣味」といっても、その言葉の定義は曖昧だから、「何をもって趣味とするか」は各人によって異なる。
例えば、ゴルフを二ヶ月に一回くらいのペースでやっている人がいるとする。ある人は、堂々と「ゴルフが趣味です」と言う。一方で、「ゴルフ好きだけど、たまにやるだけだしなー。自分より熱心な人もたくさんいるし…」と思って、ゴルフを趣味だとは言わない人もいるだろう。
このような場合、ボクは次のことをお勧めする。
少しでも「好きだなぁ」、「おもしろいなぁ」と思ったことは、
勇気を持って(でも気軽に)趣味宣言 してみよう!
なぜか?第一に、「●● が趣味です。」と口に出すと、案外
“自己暗示” がかかるから (^_^;) 自己暗示でもいいじゃないか、好きだと思えることが増えるなら。第二に、他の人に趣味宣言した以上、趣味をもっと深めたいという
良い意味での見栄 も生まれるから。最近、やたらと色んな資格取得に精を出している人がいるが、同じ思考だろう。ボクは資格取得にはあまり興味がないが…、その人達にとって資格取得が「趣味」を増やすことの一助となるならば、よいことではないですか。
上例の二人、しばらくしたらゴルフの知識や腕にも差が出てくるかもしれない。趣味宣言した人は、どんどんゴルフが面白くなって、もっとのめり込んだり。。。他にやる事がたくさんあれば、今までのペースで楽しめばいい。趣味は趣味、なにも遠慮することなんてないのだ!
そんなわけで、今からアツローの趣味宣言します↓↓↓
山登り、自転車、テニス、野球、ウェブ作成、Mac、音楽を聴くこと、オヤジギャグ、たまに真面目な思考、置物集め、切手集め、絵葉書を送ること、服の色の組み合わせを考えること、カーペットのコロコロ、おいしい店を見つけること、小説を読むこと、地図を眺めること、新しい土地を訪れること、写真…
研究 ←いちおう、これでメシ食ってるので、除外かな。
先日「自転車が趣味です。」と宣言したら、ボクより500倍くらい自転車好きの人がいて、専門用語使って語り出した。まったくついていけず、少し恥ずかしい思いをした (>_<) でも、もう少しパーツの名前とか種類とか知りたいな、と思うきっかけになったから
OK!趣味レベルが一段階上がったぞ(笑)
さぁさぁ、みんなもバンバン趣味宣言しちゃいましょう (^o^)
- 青写真
(12.1.24)
初雪@つくば。
朝から、ひとりでテンション上がる (^o^)/
小学生かっ!
チャリに乗ってみたものの、路面が凍って危ないので、すぐに下りては写真を撮る、を繰り返す。
すでに溶け始めた雪が、電線や梢
(こずえ)からドサドサ落ちてきて、研究所に着く頃にはビチョビチョになってしまった。
あ、雪だるま作って喜んでるガキがボクの他にもいる〜 (^_^;)
「冬の天気悪い次の日、晴れて風が強いと空気が澄むんだよ!」
ーそんな言葉を思い出して、始業前、研究所の最上階に上がってみる。
遂に見えた〜、
富士山!
予想していたよりも大きく見えた。雪のつくばから、雪化粧された遙か遠くの富士山を望む。呼び寄せた中国人留学生も、喜んでいた。
どやっ。日本は美しいやろ!!
- 異彩
(12.1.19)
新規性 というのは、共通項の中に異質なものを見出す(かつ、そこに価値を付加する)作業を通じて、初めて認知されるものであると思う。従って、まったく共通項のない「A」と「B」を比較して異なることを示しても、そこに新規性はない。また、「新規性」というものを
ポジティブな意味 に捉えたとして、価値を付加できなければ、それは単なる
「粗(あら)」となる。
「新規性を見出す上で、共通項と相違点のどちらを先に見つける方が合理的であろうか?」
実験の合間の昼休みに、こんなことを漠然と考える。もちろん、研究テーマを念頭に置いて思いを巡らしているのだが、このような新規性を見出す作業は、人の内面的な魅力を見つけることに似ている気がする。
他人の魅力 の一つは、自分が持ち合わせぬ事を示してくれる「目新さ」にあるだろう。ここで、自分との共通項がなければ(価値観がかけ離れ過ぎている場合)、自身との相違を魅力とは感じない。一方、自分にはない異質さが欠けていれば、共鳴(Sympathy)こそ感ずれど、特段の魅力を感じることもないだろう。尤も、長い付き合いにおいては、共鳴の割合も大事になると思うけれど…それはさておく。
新規性、他人の魅力 を見つけようとする時、一つ厄介なのは、それらを深く掘り下げれば掘り下げるほど、しばしば
「あら探し」ともなり得ることである。冒頭で述べた「価値を付加する」作業は、結果論である場合が多々あるからである。
「ボクは、キミが思っているようなボクではないぜ」
いやはや、
新規性 を見出すというのは、実に
“辛気くさい” 作業である。それでも、やっぱり科学者の端くれとしては、止められない。
- 時間を越える
(12.1.7)
地球が誕生して46億年。一方、人類は誕生して400万年。人類の歴史は、地球の
千分の一 にすぎないが、(良し悪しの議論は抜きにして)地球は劇的に変化している。
一個人の人生の時間スケールで考えてみよう。例えば、
10年を千分の一すると、4日 に相当する。4日間で何ができるだろう?わずか4日…、
前コラム で書いたように「積み重ねた時間」には何らかの意思が存在すると思うので、その途方もない重みを感じることがしばしばある。ボクは、それを大切にしたいとも思う。
されど4日…、ある短い時間で起こった出来事によって、人の生活・心情が変わり得るというのも事実だろう。昨年の東日本大震災は、たった一日で人々が時間をかけて積み重ねてきたものを打ち砕いた。たくさんの人々に新たな感情や意識をももたらした。年末ジャンボ宝くじの当選番号を見た瞬間、それまでのくすぶった日々が吹っ飛んだ、なんてこともあるだろう。このような人生の転機には、もはや時間スケールの絶対値は意味をなさない。
昨年、光速を超える物質が本当に存在するならば
タイムマシン ができるかも、という話が話題になった。ボクは、「さらに科学技術の発展した遠い未来でも、タイムマシンはできなかったんだな」と思っている。仮に未来の世界でタイムマシンができていたら、未来の人間が現在までの400万年のどこかを訪れ、それは必ずや記録に残されているはずだから。(←科学的根拠ではないけど…)
時間の積み重ねが、着実にその人の一生を形成していく一方で、一瞬にして時間を飛び越えてしまうような出来事が折り重なる。たとえタイムマシンがなくても、我々人間は実世界で時間軸を歪ませながら生きているのだ。興味深いではないですか。
2012年元日、昭和の森をチャリでひとり迷走しながら瞑想(←危ない)。今年はどんなことが起こるだろう。一年後には、笑って振り返りたい。みなさまにとっても、良き一年となりますように。
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Last modified 12.4.19