>3/17 (Thu) 因縁のブータンで宿泊??
残り一週間にして、カズみんの名言「インドでは、とりあえず下痢するよ!」が現実のものとなってしまったわけだが(3月16日)、朝食後はだいぶ落ち着きを取り戻したので、マハーボーディー寺院へと向かった。

マハーボーディー寺院は、かのゴータマ・シッダルダが悟りを開き、ブッダとなったとされる場所である。ブッダガヤはこのマハーボーディー寺院を中心に各国の仏教寺院が集まっており、それゆえインドの他の地域と違って年齢層の高い観光客(仏教徒?)もいたりする。
寺院の中には、ブッダが座し続けたという菩提樹や、金色の仏像などがあり、袈裟を着た僧の周りを人々が囲んでいる姿も見られた。(下写真)



中には右写真のように、明らかに勘違いしちゃって、悟りを開いたつもりになっている輩もいた(笑)
まぁ、オウムの麻○もかつて訪れたことがあるらしいですからね…。
さて昼時になり、どこかいい店はないかと歩いていると、怪しげな日本語看板をいくつか見かけたので、そのうちの一つの日本食レストランに入った。
「こ・ん・に・ち・は!」
どう見ても100%インド人のおじちゃんが出てきたので、まともな日本食にありつくことは諦めたが、とりあえず僕は'Ojiya'、カズは'Tempura'を注文した。

…出てきた'Ojiya'というメニューは、御飯にスープがかかっている食べ物で、意外においしかったが、とりあえず“おじや”ではなかった(^.^;


(左)銀座レストランの看板。
(右)カズが頼んだ'Tempura'定食。御飯とおかずの位置が逆なのはまだ許すとして、これは“てんぷら”ではありません。

しかし店のおじちゃんは悪びれた様子もなく、

ボク「どこで日本料理を学んだの?」

店主 「ぎんざ。どう、おいしいでしょ?」

ボク「うん、まぁ。」

店主 「何かあたらしい日本料理おしえてよ!」

おぃおぃ、銀座で修行したんじゃないんかい(‐_‐)

←日本関連看板その2。
因みにHotel TOKYO VIHARの中にあるレストランは、なんと'OSAKA RESTAURANT'だった(笑)
あと看板を見て“遠くの親戚より近くのなりた旅館”の看板を思い出した(千葉高生限定ネタ)。

午後は各国の仏教寺院を見て回った。寺院の中はどこも、とてもインドとは思えない静寂に包まれていた。
中でも印度山日本寺はメチャメチャ穏やかで雰囲気が良く、敷地内には図書室(左写真)や地元の子供達のための無料教育施設が併設されていた。
僕は図書室で置いてあった手塚治虫のブッダにしばし読み耽ってしまった…
そして夕方から、日本寺本堂で座禅を組んだ。日本人の僧侶が出てきて、しばし瞑想(-人-)zz...
ここが仏教の聖地といえども、やはり外国でこんなことをしているのは不思議な感じであった。

さてさて、この日の宿泊はカズの提案で、どこかの寺院の宿坊に泊まろうということになった。そしてカズがガイドブックをめくりながら出した結論…

「ブータン寺にしよう!」

こいつは、やっぱり面白いことを言う男である。そう、数日前のブータン密入国疑惑、我々にとってブータンは遠く離れた存在になりかけていた。
僕は直ぐさま賛成し、ブータン寺へ(下写真)。当然ながらジャイガオンでの出来事がここに伝わっているわけもなく、我々は晴れてブータンに(!?)宿泊することとなった。ブータン寺の宿坊は小綺麗な感じで、蚊帳もしっかりしていたので昨日悩まされたモスキート達にも邪魔されることなく、ぐっすり眠ることができたのであった。



Column:物乞いの人達
インドでは、小さな子供や体の不自由な人、あるいは衰弱した感じの老人の物乞いに度々出会った。
初めは少しビックリして、ただそっぽを向いているだけだったが、考えてみるとあまりに可哀想な境遇である。つまり日本の大半のホームレスとは単純に比較できず、彼らのせいだけでもたらされた状況とは考えられないのである。物乞いでなくても、街角で絵葉書を売ったり、バス・電車でお菓子を売って懸命に働く小さな少年の姿には、何度か胸をキュンとさせられることがあった。
そうでもしないと生きていけない環境を作り出したのは誰なのか…?

今日、インドのカースト制度はなくなったことになっているが、その名残は明らかに存在している。貧富の差はかなり激しく、例えば電車は車両毎にグレードが分かれているし、“IT産業”の拠点として注目され始めているインドも、それに携わるのは一部のお金持ちの人達といっていいだろう。

さて、僕がインドに行って悩んだのは、物乞いの人達に対する接し方である。
インドの人々の中にも1, 2 Rs与えている人はいたが、多くは何も与えていなかった。我々は確かに恵まれた国に育ち、お金を持ってはいるけれど、僕はそこで高飛車な態度は取りたくなかった。また、与え始めたらキリがないし、1, 2 Rs与えたところで何か環境が変化するものなのか、という疑問もあった。しかし、その1, 2 Rsを与えたことで、少しでも物乞いの人達の飢えがしのげるならば、少しでも彼らの命が救えるのなら…アンビバレントな感情が交錯した。

このブッダガヤで、物乞いの多いインド社会に疑問を呈し、「このような問題の根本的解決は、教育をしっかりして、社会的基盤をつくりあげるしかない。だから私には夢があって、無料で子供達を受け入れられるような学校を作りたいんだ!」と語る方に出会った。まだまだ夢と現実とのギャップは大きい気がしたが、学ぶ機会をできるだけ多くの人が得られるようにするというのは、貧困に苦しむ人々が立ち上がる一つの妥当な考えかなぁと思った。自分の国を自分で変えていこうとする、この方の熱い想いに強い印象を受けた。

今回は一応の方針として「物乞いされても何も与えない」こととしたが、僕の中での彼らに対する接し方は、最初とは随分変わった。
では今後、僕が何か根本的な状況の改善に役立つようなことができるか?その手段として、何が適切か?ーまぁ自分自身、今は親のスネをかじっている身であるし、そうでなくともボランティアなんてことは軽々しくいえるものではない。ただ、日本では想像もできない貧富差の中で、貧しい人々は毎日を生き抜くために必死であるという現実があることは、これからも心に残しておきたい。何も感じずにノンノンと日本で暮らしているより、少しは世界を広く色んな風に考えることができると思う。